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昭和28年 12月28日大分県東国東郡武蔵町生まれ。後の師である、アントニオ猪木に憧れ、中学2年で日本プロレス入門を決意。中学卒業後、トレーニングジムに通い、その後大分に巡業に来た日本プロレスに合流。その日から、同郷の魁勝司選手(北沢氏)を訪ね入門を志願し、無理やり同行、押しかけ入門する。その後、昭和46年に日本プロレスを離れたアントニオ猪木の新団体旗揚げに参加。当初は訳もわからなく、ただ憧れのアントニオ猪木に付いて行く事を決心。昭和47年3月新団体、新日本プロレスリング旗揚げ。わずか5人でのスタートであった。昭和49年、第1回カール・ゴッチ杯争奪戦に優勝し、海外行きのキップを手にする。翌50年6月に初渡欧。ドイツ・メキシコを転戦。その後、アメリカに渡り、プロレスの神様カール・ゴッチの元で修行。約3年8ヶ月の海外修行を終え、昭和53年1月ニューヨークで、日本人初のWWWFジュニアヘビー級選手権王者となり、華々しく凱旋帰国。日本のジュニアの一時代を築く。昭和56年にヘビー級に転向。体格差に苦しむが、57年に念願のヘビー級タイトルを奪取。だが、昭和63年試合中の怪我(椎間板ヘルニア)により、戦線離脱。一時は再起不能と言われ、引退を余儀なくされるも、1年3ヶ月にも及ぶ治療とリハビリの末、奇跡のカムバックを果たす。平成7年10月には、プロレスの原点回帰を追求し、“無我”を結成。イギリスの名門ビリーライレージムと提携。基礎のしっかりしたレスリングを若い世代のプロレスラーに伝えることを目的にスタートした。平成10年4月4日には、師アントニオ猪木引退記念試合において王者佐々木健介を破り、第24代IWGPヘビー級王者に返り咲く。なんと44歳にして通産6度目という偉業を達成。翌平成11年6月には、新日本プロレスリング㈱の代表取締役社長に就任。2006年新日本プロレスを退社。無我ワールドプロレスリングを設立。